グイノ神父の説教
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主の公現
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聖母の被昇天
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聖家族 B年 2008年12月28日
創世記15章1−6節、21章1−3節 ヘブライ人への手紙11章8、11−12、17―19節 ルカ2章22−40節
イエスは一人の婦人から生まれ、私たちのように一つの家族の中で成長するのを望まれました。 しかし彼は私たちの神であるにも拘らず、同時に、目立たなくて、壊れやすい者となることも選ばれました。 イエスは彼が「お父さん」とか「お母さん」とか呼ばれる一人の男の人と一人の女の人の人間的な深い愛情の中で成長されるでしょう。
聖ベルナルドは自分の説教の中で、「あなたの創造主は自分自身をマリアとヨセフに任せられました。この模範に従がうことは、あなたに相応しい事ではないでしょうか。」と述べています。 ですから、神の子の慎ましい家族のむつましさに入る為に、マリアとヨセフに目を向けましょう。
ヨセフは正しくて、賢く、注意深くて、慎重な人です。 自分に現れた天使の願いに対して、3度繰り返して行なった彼の態度は、信じる人としての従順さを示しています。 神の望みへの呼びかけを、彼の魂と自覚のうちに認めた時、彼は行動します。 ヨセフは私達に、神の呼びかけに対して注意深くあるように、それにふさわしく行なう様に教えています。
マリアは完全に神のみ言葉の成就の方へ向いている婦人です。 彼女は神のみ言葉で養われ、心のうちで絶えず黙想しています。 幸福であろうと不幸であろうと、彼女の人生の出来事すべては、神のみ言葉のふるいに掛けられています。 彼女は私たちに一つの言葉しか残していません。 それは「この人が何か言いつけたら、そのとおりにして下さい。」(ヨハネ2章5節)という言葉です。
今日の福音の中で、ヨセフとマリアの律法に対する忠実さは22、23、24、27、39節で5回言及されています。 マリアとヨセフは、イスラエルの民の信仰の遺産を、彼らの子供に忠実にそして忍耐強く伝えました。 このように両親の傍にいて、人生の各瞬間を生きるために必要な力を、神のみ言葉のうちに汲み取る重要性をイエスは学ばれます。 ヨセフとマリアと共に、彼は聖書の多くのテキストを通して、イスラエルの民の歴史を発見します。 典礼の美しさ、家族と共に祈る幸せ、分かち合いの喜び、他の人々に注意を払う事などを、イエスは味わいます。 特にどのような環境にあっても、何時も神に向かう心をどんなふうに持ち続けるかを学びます。
信仰によって、イエスは私たちのうちに入り、私たちは彼の家族、兄弟、姉妹となります。 マリアとヨセフのように、皆に対して、何よりも特に神の呼びかけに対して、私たちが喜んで受け入れ、気をつけることが出来るように聖霊に願いましょう。 私たちのようにマリアとヨセフも時々何も分かりませんでした。 福音はそれを何回も繰り返しています。 マリアとヨセフに起こってくる予測しがたい出来事を通して、彼らのただ一つの力は神のみ言葉に対する信頼でした。 彼らを真似る勇気を持ちましょう。
毎日、忠実に、神のみ言葉の何節かを読むこと、そして私たちの心で根気よく、じっくり噛みしめるように、神に助けを願いましょう。 何故なら神のみ言葉は理解し、解釈しなければならない講演ではありません。 神のみ言葉は命と行動の泉です。 神のみ言葉は、それはキリストご自身です。 イエスは道、真理、命です。 イエスはいつも私たちの実存の中心において私たちと出会います。 そこではイエスのみ言葉は私たちを守り、保護されます。 もし私たちが他の所へ探しに行くなら、イエスに決して出会えないという危険があります。 ヨセフとマリアが神のみ言葉の光のうちに留まるように、教えてくださるように! イエスと親しく生き、イエスに対して一生、忠実であるように、聖霊の呼びかけを見分ける事を、マリアとヨセフが教えてくださるように! 神のみ旨を行なうこと、それは、イエスが私たちの人生の岩となられるために、私たちの心のうちで、イエスが成長されるままにすることです。 アーメン。
神の母聖マリア B年 2009年1月1日
民数記6章22−27節 ガラテヤの信徒への手紙4章4−7節 ルカ2章16−21節
生まれたばかりの幼子の周りで皆が動きまわっている時、動かず、沈黙していて、控えめな婦人に気付くとしたら、それは珍しい事です。 ところが彼女はすべてを見、すべてを聞いていて、すべてを自分の心に納め、すべてに「はい」と言っています。 一言で言えば、彼女は祈っています。 この婦人はイエスに関することすべてに注意深いです。 この方はマリアです。 彼女は未来について考えず、未来について心配もしていません。 彼女は神に信頼しています。 彼女は現在の事柄に注意深く、いつでもそれに相応しく行なう準備ができています。 彼女はまた、神の賜物として受けたこの現在の事柄に意味を与える過去が彼女の心の記憶の中をさかのぼるに任せています。
彼女に与えられた幼子を優しく眺めながら、マリアはイスラエルの歴史を作り出した思いがけず、意外な、約束の子供たちみんなを、過去の奥底から浮かび上がらせていました。 不妊の女から生まれた子供、または死と罪から生き残った子供たち、イザク、ヨゼフ、モーセ、サムエル、サムソン、ソロモン、洗礼者ヨハネなどなど・・・ マリアは不思議な運命を辿った人びと皆を、絶えず再確認された約束の壊れやすいつながりを、結びなおした人びと皆を思い出していました。 「彼は多くの国民の父となるだろう・・・彼は自分の民を救うだろう・・・彼の統治は終わる事がない」 マリアはこの約束の実現を自分のうちに受け入れました。 彼女は理解できる事も、理解できない事も受け止めます。 マリアは過去の事柄を思い巡らしながら、現在の事柄に「はい」と言います。 未来については神に委ねます。
「どうしてそのようなことがありえましょうか?」 天使が去ってから、マリアは自問するのを止めました。 彼女が属する民の過去と神への信頼が、彼女にとって、現在の事柄を照らすのに充分でした。 今年の新年の出発の日に当ってマリアを眺めましょう。 というのは新年の挨拶を交わしながら、私たちが未来を見つめる事を妨げることが出来ません。 この未来が私たちの望んだ以上に良くなるか、それとも恐れている以上に悪くなるか、どうでしょうか。 空疎な質問です。 マリアは現在の事柄のなかに、つまり今日こそが、未来を準備するのだと私たちに教えてくださいます。 神に属している未来は、とに角、私たちの想像と希望とを遥かに超えるものです。
ですから、今年一年中、マリアを真似るように努力しましょう。 私たちに与えられた現在の事柄を受け入れましょう。 イエスを観想しながら、神に信頼しながら、特に命のみ言葉を心のうちに思い巡らしながら受け止めましょう。 私達はイエスからすべてを学び、すべてを受けるはずです。 もし私たちの人生においてマリアのようにイエスを受け止めるならなら、未来に直面する力と信仰の勇気とを、マリアのようにイエスから受けるでしょう。 私たちはまた、どのように過去の歴史が未来の為に必要不可欠なものであるかを理解するでしょう。
私たちの人生に意味を与えるたった一つの方法は、毎日、主の祝福の手のうちに人生をゆだねることだと知っていますから、私たちはここ、主のそばに年の最初の日に集まっています。 洗礼によって、私たちは永遠の命の賜物を受けました。 この命は 後のため、つまり死の時の為に与えられているのではなく、今こそ 神との親しさのうちに生きるために与えられているのです。 このように生きる人は審判を恐れる必要がありません。 というのは神と既に一致しているからです。 本当の信徒は未来を心配しません。 かえって現在の生きかたが神のご計画に一致しているかどうかを知りたいと心配します。 「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知る事です」(ヨハネ17章3節)とイエスは言われます。
今日、ミサに参加しながら、神をもっとよく知る為に、その愛の神秘に何時も、もっと入るように神に願いましょう。 神の愛の神秘が私たちのうちに実現する為に、神のお望みが成就されるように、マリアが私たちを助けてくださるように・・・マリアのように、この新しい一年中、神が私たちに願われるすべての事柄に対して、また私たちを導かれる所まで神について行くように、「はい」と言う事を学びましょう。 アーメン。
主の公現 B年 2009年1月4日
イザヤ 60章1−6節 エフェソの信徒への手紙 3章2−3節、5−6節 マタイ2章1−12節
ある日、占星術の博士たち、古代オリエントの天文学者たちは、彼らの深い望みを解決するには、夜空の高いところではなく、地上で捜さなければならないと理解します。 そして同国人の疑いようのない笑いや嘲りを受けながらも、歩き始めました。
彼らは先ずヘロデ王の宮廷へ行きます。 しかしヘロデ王は返答が出来ません。 結局、彼らに与えられた光である神の言葉の書かれた古い本の中で答えを見つけます。 そして丁度そのとき、昔、彼らが観測した星が新しく現れます。 その星は彼らの足取りを導き、彼らを喜びで満たします。 ユダのごく小さい村にあるベトレヘムで、占星術の博士たちはただ一人の男の人、女の人、生まれたばかりの赤ちゃんという地味な家族だけを見つけます。 超自然的な奇蹟もなく、天使たちも恍惚状態もありません。 しかし博士たちは理解して、イエスの前に跪きます。 宇宙の壮麗さの前で感嘆するのに慣れている彼らは、神の目に見える姿である一人の子供のうちに、「世の創造主」を見出します!
彼らは生まれたばかりの赤ちゃんを捜していたにも拘らず、神ご自身を見つけました。 そこで彼らは贈り物を捧げます。 人が王に捧げるものとしての黄金を、愛の香料であり、死者に塗る没薬を、そして最後に神を礼拝する為に燃やす香を捧げます。
占星術の博士たちのように私達も、神を見つける事が出来るのを思い切って信じなければなりません。 幸福の鍵を渡すと主張するいい加減な説明や嘘の予言を信じるのを止めましょう。 キリストを信じる者は、救い主であるイエスを捜すのに、暗夜の中に深く入り込もうと望まなければなりません。 理解しない人の笑いや嘲りも私たちが捜すのを妨害するものになってはなりません。 イエスを発見する恵が得られた時には、私たちは彼の前に全く小さい者となり、跪かないではいられないでしょう。
もし私達が何も持ってくる贈り物がないとしても、重大な事ではありません。 イエスが望まれるものは、私たちの所有するものではなくて、私たち自身です。 その時、私たちは信仰の神秘に、私たちのすべてを与えるかどうか選ぶ事ができます。 それは人間と神が結合する、この上ない会話の場である、祈りの内面的に親しい出会いのうちにおいてです。 私たちの神を喜ばせるものは、試練と疑いにも拘らず、絶え間なく神を捜す私たちです。 神を喜ばせる事は、今朝、また、神を礼拝しに私たちがここに来た事です。 占星術の博士たちのように私達も、他の道から出発しましょう。 なぜならイエスは必ず私たちの見方、判断の仕方、行ない方を変えられるからです。 イエスが私たちの人生の中心となられるから、私たちの生き方も変わるでしょう。
私たちは博士たちよりもっと幸せです。 何故なら彼らは御子イエスを村に残してきたからです。 しかし私たちは、もし望みさえすれば、毎日私たちの心のベトレヘムで、毎週この教会で、救い主が私たちと共にいられる事を体験します。 というのは、彼がエンマヌエル(神は私たちと共に)と呼ばれているからです。 そして私達が頂く命のパンである聖体は、父の家へ安全に導く星となります。 聖ペトロの言う“あなた方の心に昇る明けの明星”(2ペトロ1−19)が私たちの心の奥底で何時も輝き、私たちを喜びで満たしますように。 アーメン。
主の洗礼 B年 2009年1月11日
イザヤ 55章1−11節 ヨハネの手紙T、5章T−9節 マルコ1章7−11節
イエスの洗礼に関するマルコの話は新約聖書の中で一番短いです。 マルコは細かい事を少ししか話しませんが、肝心の事を打ち明けています。 イエスは神が世の救いの為に遣わされた方です。 「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」という皆が聞いた神の言葉を通して、イエスは自分の使命を受け取りました。 イエスはかつて神が宣言された旧約聖書の中の次の箇所を考えています。 それは「見よ、私の僕、私が支える者を。 私が選び、喜び迎える者を。 彼の上に私の霊を置いた。」ということばです。(イザヤ42章1節)
救い主イエスは全く罪に染まっていません。 それならどうして彼は洗礼を受けるのでしょうか? それは回心し、新しい生き方で再生しようと望んでいる沢山の罪人と、彼が一体化することを私達に示すためです。 聖ヨハネは自分の手紙の中で、イエスが水と血と聖霊の証しを持って来られたと説明しています。(1ヨハネの手紙5章7,8節) それは、神のみ言葉であるイエスが、本当に私達に似た人間である事を、証しするためだと彼は言っています。 十字架上における彼の死と同様に、流された彼の血は、イエスが本当の人間であった事を証ししています。 聖霊はキリストの洗礼と死と復活に立ち会いました。 それはイエスが本当に神の子であることを表明する為です。 「証をするのは3者で、霊と水と血です。 証しするために、この3者は一致しています」(1ヨハネの手紙5章7,8節)とヨハネは言っています。
イエスの洗礼はひとつの誕生の目に見える印です。 子供が生まれる時、叫び声を上げます。 それは生命を呼吸する叫びです。 しかし子供はお母さんの血で覆われているので、血を洗い落とすために水の中に入れなければなりません。 同様に、人間は死ぬ時に、最後の叫びのうちに人間存在である、自分の命の息を引き取り、心臓は血の循環がさまたげられて、止まります。 その時、尊敬をもって家族は死者の体を洗います。 このように誕生の時の水と、死の時の水は、人間の命の印です。 洗礼の水には、同じ意義があります。 洗礼の水の中で、罪人である人間は新しい命に再び生まれ変わる為に死にます。 彼は神の子となり、永遠の命である聖霊の息吹きを受けます。 受洗者はこの時から、自分のうちに、この永遠の命を保つ為に、どうしてもキリストの体と血をいただかなければなりません。
キリストの誕生と洗礼と死は、イエスが本当に人間である事を示しています。 同様にイエスの使命、言葉、行いはイエスが本当に私達の救い主、私達の神である事を証ししています。 イエスはイザヤが預言した方であり、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。 銀を持たない者も来るがよい」(イザヤ55章1節)と私達を無償で誘われる方です。 ヨハネの福音の中で、イエスは次の言葉を特に繰り返して言っています。 それは「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。 私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7章37−38節)という箇所です。
洗礼の日、イエスは御父から声をかけられます。 彼は父から人間である召し出しと救い主である召し出しを受けます。 洗礼によって、人間となった神であるイエスは、人類と一体化します。 反対に、洗礼によって、私達はイエスと同一視され、神の子になります。 しかしながら、キリストが受け、私達が受けた洗礼は、私達が神から生まれ、聖霊に満たされて、神の愛する子であるという3つの事を一致して証しします。 イエスのように、私達の洗礼の日、私達は神の子となる召し出しを御父から受けました。 私達はまた、周りの人たちに、御父の愛について、私達を通してイエスが実現する救いについて、証しすると言う美しい使命を受けました
今日の朗読を全部、ゆっくりと読めば、私達の洗礼の意味が少しよく分かるようになるでしょう。 これらの朗読から、私達のキリスト者としての召し出しについて真面目に考えましょう。 と言うのは、自分の洗礼によって、私達はキリストの使命の協力者なのですから・・・聖霊の働きにもっともっと自分を委ねましょう。 この聖霊は私達が本当に神の子である事を示すために、生涯にわたって、私達と共にいますから。 アーメン。
聖母の被昇天 B年 2009年8月15日
黙示録11章19節 12章1−6節、10節 Tコリントの信徒への手紙15章20−27節 ルカ1章39−56節
神の呼びかけを前にして、マリアは完全に動転していました。 彼女は自分に言われたことの意味を理解しようとしています。 「それは一体どういうことですか?」と。 天使の答えは、深く誠実な信仰の言葉を彼女の心からほとばしり出させました。 自分が相応しくないと口実を述べることもなく、よく考えるために猶予を求める事もなく、マリアは即座に、自分の使命を受けいれます。
「私は主のはしためです。」と彼女は言います。 これはつまり、「私は神のご計画のために,全身,全霊を尽くしてお捧げする事を承諾します。」ということです。 彼女は付け加えます。「お言葉の通り,この身になりますように」と。 これはつぎのような意味です。「完全に私を超越するこの招きが、今この時から実現しはじめますように。 神のみ言葉が実現し、私のうちに肉体化されるために、私の全存在は、あますところなく自由に使ってくださるように準備できております。 そうです。 私はこの使命を引き受け、世界を造られた方、全人類を救い、再創造される方が、私のうちに来られるままにしたいと思います」と。
続きを私達はよく知っています! ご誕生の喜び、受難の時のマリアの涙、イエスの復活の時の歓喜、聖霊降臨の時の使徒たちの傍らでのマリアの熱心な祈りなど。 その後起こったことは全て神秘です。 福音書では何も言っていません。 エルサレムにはマリアの死を記念する教会があり、エフェソでは聖ヨハネと共に彼女が生活した家を見せてくれます。 しかし何処にもマリアの墓の跡はありません。
マリアはこの時以来、キリスト者の共同体に住んでいます。 彼女は最初に体験して、生きた事を、信じる人々のために刷新しようと彼らと共に祈ります。 私達が神に「はい」というために、そして私達が聖霊の働きかけを自分のうちに受け入れるようにと彼女は祈ります。 神の謙遜な召使いであるマリアは、自分の信仰といつでも自由に差し出す状態とを私達に下さいます。 それは私達一人ひとりの内にキリストが再び受肉するためです。 というのは、マリアに実現した事は、今度は私達のうちに実現されるべきだからです。 私達もまた、「キリストの母」とならなければなりません。 つまり、私達の存在すべては救い主であるキリストを世界に与える可能性をいつかもたらすためです。
実際、洗礼によって、私達のうちにキリストが生まれます。 ご聖体によって、イエスは私達のうちで強くなり、成長します。 堅信によって、私達は聖霊の神殿になります。 最後に、教会との一致のうちにひたすら祈ることで、私達の命は本当に神の内にキリストと共に隠されています。(コロサイ3章3節) そういうわけで、私達は「キリストが現れる時、私達も、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3章4節)と言う事を知っています。 これこそ、昔、被昇天の時、マリアのために起きたことだからです。 ですから、私達は歓喜してマリアと共に歌いましょう。 「主は私のために、素晴しい事をされました、その名は聖!」と。 アーメン。
諸聖人の祭日 B年 2009年11月1日
ヨハネ黙示録 7章2−14節 Tヨハネの手紙 3章T−3節 マタイ5章T−12節
初代教会のキリスト者たちは、互いに「兄弟たち」とか「聖なる人達」とか呼んでいました。 これは、「別に置くとか、異なった」とか言う意味のヘブライ語に応じたものです。 改宗した受洗者は行動を変える事を約束し、更に、神がかつて命じられた事やイエスが繰り返し言われた事、つまり「私が聖なる者であるから、あなた達も聖なる者となりなさい」(レビ11章45節)や「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5章48節)という事を守る決意をしました。 聖パウロが自分の最初の手紙からずっと「神の御心はあなたがたが聖なる者となることです」(Tテサロニケの信徒への手紙4章3節)と書いています。 しかし、彼のすべての手紙に、完全でない様々な教会すべてに、厳しい非難を表明しています。 それにもかかわらず、パウロはいつもキリスト者を、兄弟であり、聖なる人として認めています。
何故なら、聖性は受けた賜物であり、果たすべき義務です。 洗礼によってキリスト者は、別の者とされました。 神のみ言葉と秘跡で養われ、信仰と祈りの生活とその忠実さによって、聖となります。 ヨハネは示現のなかで、数え切れない群集を見ます。 皆、白い衣を着て、神とその子イエスを声を合わせて歓呼の声で迎えます。 何故なら、神からすべてを受けたからです。 彼らは「救いは神から与えられた」と言っています。 歓喜の印である棕櫚の枝を振りながら、限りない幸せを現しています。 これらの選ばれた人々の中で、誰一人自分の人生は成功だったとほらを吹く者もなく、自分の完璧さを自慢しないし、自分が他の人よりも優れていると思う者もいません。
しかし、これらの聖人は皆、「大きな苦難を通って来た者で、キリストの血によって清められた者」(ヨハネ黙示録7章14節)ですと聖ヨハネははっきり言います。 これらの男の人達も女の人達も地上での人生の間中、私達と同じように、誘惑に立ち向かって、キリストに従がって十字架を荷い、彼のために苦しもうと、自分自身を捨てなければならなかったのです。 皆のようにする代わりに、彼らはイエスが「貧しい者、柔和な者、義に飢え渇く者、心の清い者、迫害される者は幸いである」(今日の福音)と教えられた幸せを捜し求め、選びました。 或る人にとっては、貧しさは試練であり、他の人にとっては、裕福が試練です。 或る人にとっては病気が、他の人にとっては健康が試練であり、或る人にとっては失敗が、しかし他の人にとっては成功が試練です。 そしてまたすべての人にとって、日常生活の試練やあらゆる種類の誘惑とはこのようなものです。
受けた信仰に対して忠実にとどまるために、試練の中でのこの戦いは必要で、時には大変な事になり、とに角、最後の瞬間まで続きます。 然しながら、私達を救うのは私達の努力ではなく、唯、キリストのおん血のみである事をよく理解しましょう。 つまりそれは神の慈しみです。 「事実、あなた方は恵により、信仰によって救われました。 この事は自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。 それは誰も誇る事ができないためなのです。」(エフェソの信徒への手紙2章8,9節)とパウロは、はっきり説明しています。 聖性への歩みの中で、私達は独りぼっちではありません。 そう言うわけで、私達の希望は強いのです。 「こういうわけで、私達もまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を、忍耐強く走り抜こうではありませんか。 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(ヘブライ人への手紙2章1,2節)と書かれています。
天は感謝の歌、感謝の賛美、感謝の称賛に溢れています。 「現在の苦しみは、将来私達に現されるはずの栄光に較べると、取るに足りないと私は思います。」(ローマの信徒への手紙8章18節)と聖パウロはまた説明しています。 今日こそ,聖性に輝くこの多くの群集と一つになるという私達の望みが、強くなりますように! 神の最も大きな栄光と私達の永遠の喜びの為に、神が洗礼の日に私達に植えられた聖性の種や芽生えに、力と成長を下さるように・・・
ア−メン。